契約結婚終了のはずが、年上旦那様に溺愛されてます

書籍情報

契約結婚終了のはずが、年上旦那様に溺愛されてます


著者:戸瀬つぐみ
イラスト:石田惠美
発売日:2022年 7月29日
定価:620円+税

今夜、穂乃香の夫・絢人が専務取締役の会社「橘屋」が、穂乃香の亡き祖父の会社「桐生マテリアル」を企業買収することが発表される。
それに伴い、穂乃香と絢人の七年にも及ぶ契約結婚は終了するのだ。
両親を亡くし叔父一家に引き取られたものの、肩身の狭い思いを強いられていた穂乃香を助け出してくれた絢人。
そんな彼を解放するため、恋心を押し込めて離婚の時を待つ穂乃香だったが、「欲しいものはないか」と尋ねられ思わず「大人の女にして欲しい」と口にしてしまい……。
「どうして今まで指一本触れずにいられたんだろう。……もっと君を味わいたい」
最初で最後の夫婦の夜を過ごした次の朝、穂乃香はさよならのつもりで離婚届をテーブルに置いて家を出たのだが――!?

【人物紹介】

橘穂乃香(たちばな ほのか)
幼い頃に両親を亡くし親戚の家に引き取られたが、18歳のときに自身が「桐生マテリアル」社長の孫だと知らされ、相続問題に巻き込まれてしまう。
結婚という形で救い出してくれた絢人に、いつしか好意を寄せるように……。
現在は25歳で、普段は保育士として働いている。

橘絢人(たちばな あやと)
「タチバナホールディングス」の社長息子であり、主力事業である老舗百貨店「橘屋」の専務取締役を任されている33歳。
当初は穂乃香が大人になるまで見守るだけのつもりだったが……?

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【試し読み】

「穂乃香、おいで」
 主人を慕う犬のように、呼ばれたら勝手に身体が動いた。
 向かいのソファーに座っていた絢人のところまで行き、彼の膝の上に乗って、甘えるように胸に顔をうずめる。
 こんなふうに彼と密着したことは、はじめてだ。
 この行動は間違いではないだろうか? おかしくはないだろうか?
 不安になったのは一瞬だけだ。絢人はすぐに穂乃香の背中に腕を回して抱きしめてくる。そして穂乃香がゆっくりと顔を上げると、優しい眼差しで見つめ返してくれた。
 顎に、彼の指先が触れる。互いの吐息がかかるくらい距離が近い。
 ――このままキスをして欲しい。
 そんな願いが届いたのか、それとも穂乃香が無意識に自ら距離をさらに縮めていたのか、二人の唇はふわっと重なった。
「あっ……」
 それは感じたぬくもりもすぐに消失してしまうほどの、ほんの一瞬の触れ合いだ。絢人の唇は、さらっとして柔らかかった。
「不思議だ……」
「何が……ですか?」
「どうして今まで指一本触れずにいられたんだろう。……もっと君を味わいたい」
 間違いない。絢人は今、穂乃香を確かに女として見ている。穂乃香は喜びを表すように彼の首に腕を回して、もっともっととねだった。
 それに応えるように、絢人は今度は絶え間なく口付けを与えてくれる。強く、長く押しつけたり、唇をついばんだり。
 上層階のためか都会の喧騒も聞こえず、BGMもない部屋には、ちゅっちゅと鳴るリップ音だけが響いていた。
「んんっ……」
 絢人の舌が穂乃香の口の中にあって、渇望を満たしてくれる。激しいキスだった。穂乃香は受け止めることが精一杯になってしまう。
「あっ、絢人さん……気持ちいい。キス……すごい気持ちいい……」
「かわいい。穂乃香も、舌を出して……絡ませて。もっとよくなるから」
「あっ、んんっ、……あや、とさん。ふぁっ……」
 こうして舌を絡ませていると、身体の芯が疼く。穂乃香は本能に従って彼に自分の身体を擦りつけていた。溶けてしまいそうなくらい熱い。
「ああ、たまらない。……穂乃香、早くベッドに行こう」
 絢人は穂乃香を抱き上げ、そのままベッドルームへと向かう。柔らかいマットレスに優しく下ろされた穂乃香は、絢人からの熱心な視線を一身に浴びて身じろぎをした。
「私、暗いほうが……」
 ベッドルームの天井にはいくつかのダウンライトがあり、今はそれがすべて点灯している状態だ。
 これからドレスを脱ぐとしたら、明るい場所で裸体を晒すことになる。それは、経験のない穂乃香にとってはあまりにも恥ずかしいことだった。
 遠慮がちに申し出ると、絢人はすぐに部屋の明かりを調整して、フットライトだけにしてくれる。
「すべて、穂乃香が望むようにするよ」
 暗さに慣れず穂乃香には絢人の影しか見えなくなる。しゅっと衣擦れの音がした。絢人が、着ていたシャツを脱いだのだ。それからベッドが軋んだ。近付いてくる気配がする。
 鼓動を速めながら身を固くして待っていると、穂乃香は大きな影に覆われた。緊張のあまり固く目を閉じると、こめかみにちゅっと柔らかい感触が届く。
「そんなに緊張されると、……俺もどうしていいかわからなくなる」
 絢人は機嫌を悪くしたわけではなく、おかしそうに笑っていた。穂乃香は子どもっぽいと思われたのだと羞恥と情けなさで涙が出そうになってしまう。
「違うんです。……やめないで。お願い……さっきみたいなキスしてください」
 穂乃香は絢人の首に手を巻き付けて、縋り付くようにキスをねだった。彼が大人のキスをしてくれたらそれだけで夢中になれる。緊張も恐怖もどこかに消え失せてしまうはずだ。
 絢人は穂乃香の浮かした頭部を支えながら、願い通りに唇を重ねてくれた。さっき教えられたように、穂乃香も積極的に舌を伸ばして絡ませる。
「キス……好き……」
 合間に、息を乱しながら穂乃香はつぶやいた。
 これは大人のキスで、恋人同士のキスだ。絢人とこうしていることが不思議で、自分の願望が見せている夢なのではないかと疑いたくなる。
 夢ではなく本物であることを確認しようと、穂乃香は彼の背中や腕にも手を回してみた。人の素肌……普段は服に隠されている部分に自由に触れることも、はじめてかもしれない。
 どうしてもそこに触れたくて、彼の胸のあたりに手を移動させた。感触は弾力があって、想像より柔らかい。そして彼の心臓は穂乃香と同じくらい速く強く動いていた。
「俺だって、平静じゃないんだよ」
 唇を離した絢人が、照れたように言う。絢人も穂乃香と同じで、鼓動を高鳴らせているのだ。それが嬉しくて、くすくすと笑った。
「なんだ、穂乃香はまだ余裕だな」
 絢人は挑発するように穂乃香の顔をぐっと持ち上げる。
「嫌だったら、胸を叩いていいから」
 そう前置きした絢人は、まだまだこんなものではないと知らしめるように、穂乃香の唇をこじ開け、貪り、そしてわざと唾液を流し込んできた。
「あ、ふっぁ、……んんっ」
 ワインの香りがする。甘いから、知らず知らずのうちに酔ってしまいそうだ。口の中が満たされ、溢れてしまいそうになる。溺れてしまいそうだが、穂乃香は絢人の胸を叩かなかった。
 ごくりと、絢人が注ぎ込んだものを飲み干す。彼が喜んだのがわかった。
「絢人さん、……もっとください」
 この淫らな行為も、キスと言えるのだろうか。口の中を嬲られ、吸われ、飲み干しても絶えず与えられ酔ったように思考が鈍っていく。
 穂乃香の唇はだらしなく半開きになって、そこからどちらのものかわからない唾液が零れ落ちた。
「あっ……」
 雫が首を伝う感覚に、少しだけ理性を取り戻し、あわてて手で拭う。
「ドレス、汚れてしまいそうです……」
 この日のためにあつらえたドレスだ。次に着るような機会はなさそうだが、それでも汚したくはない。穂乃香はゆっくりと身を起こしたが、ここにきてどうすべきか迷う。自分から脱ぐのが恥ずかしかった。
 じっと見つめると、察してくれた絢人が穂乃香の背後に回る。
「脱がせてもいい?」
 穂乃香が頷くと、ファスナーがゆっくり下ろされていく。肩紐が外され、ドレスは丁寧に取り払われた。穂乃香はドレス用のセミロングタイプのブラを身につけていたが、その低い位置で止められたホックもひとつずつ絢人の手によって外されていく。
 さっきまで意識していなかった空調の流れを、肌が感じ取っている。頼りない姿につい前屈みになって、絢人からは見えていないであろう胸を手で隠した。
 すっと、丸まった背中に絢人の指先が滑る。
「あんっ……背中、くすぐったい」
「この綺麗な背中に見とれていた男が、今夜何人いたことか……」
「そんなこと、知りません」
 会場では間違った振る舞いをしないように、人からどう見られるか気にしてはいたが、穂乃香が興味を持たれたとしたらそれは、「橘絢人の隣にいる人物」としてだ。誰も穂乃香に対して熱い視線を送ることはない。
「もし俺がそばにいなかったら、たくさんの男に声をかけられたんだろうね。でも穂乃香は俺の妻で……触れていいのは俺だけだ」
 背中に、熱い吐息がかかる。絢人が顔を寄せているのがわかった。そして、指とは違う感触がした。もっと柔らかくて、優しい感触だ。触れられた場所から、じんわりと熱が広がっていく。もうくすぐったいだけではない。
 絢人が熱心になれば、穂乃香はすぐに高まり、艶っぽい吐息が漏れ出てくる。
「気持ちいい?」
「……わ、わからない」
 ごまかすように小さく首を横に振ると、隠したがる穂乃香の手をどけて、絢人は自分の大きな手でふたつの膨らみを覆う。
 ふにゅふにゅと胸を優しく揉まれている間は、我慢できた。でも絢人の指先は、時折穂乃香の胸の先端をかすめてくる。最初は偶然生まれている刺激だと思ったが、そうではなかった。
 固く立ち上がりはじめた穂乃香の乳頭を、絢人が指先でくにくにと摘まんだ。同時に背中を唇で愛撫してくる。
「んんっ、あっ、強く吸ったら……ああ」
「どんな気分? 正直に言ってくれ」
「ぞくぞくするの。……気持ちいい。どうしよう……私……」
 背中と胸に与えられる快感が、波紋のように広がっていく。胸の先端を摘ままれるたびに、下腹部が疼いてしかたない。嬌声が勝手に漏れ出てきてしまう。それを煽るように、絢人は穂乃香の感じる部分に触れる手を休めなかった。
「ふっああっ、胸……気持ちいい、ひっ……、ああっ、強い……」
 痛みを感じるぎりぎりの強さでいじられると、まだ触れられてもいない場所から慣れない感触がした。とろっとした雫が穂乃香から零れ落ちて、ショーツを濡らしてしまったのだ。
 穂乃香は膝をすり合わせて、強すぎる刺激を逃がそうとした。もじもじと落ち着かない動きをしてしまう。すると絢人は、片方の手を下へ移動させていく。
「んあっ、絢人さん! 恥ずかしい」
「恥ずかしがる必要はないよ。……ああ、濡れてる」
 湿った下着をかきわけて、絢人の指が穂乃香の秘部に入ってきてしまった。まだ、誰にも触れられたことがない場所だ。
 絢人は穂乃香がしたたらせていた蜜を、秘裂に擦りつけた。そして、潤った蜜壺の入り口に、指を一本だけ侵入させてくる。
「んんっ、んっ……あんっ」
「声、我慢しなくていいんだ」
 指先だけなら、それほどのきつさはない。でも、絢人の指が自分の中に入っている、その事実が穂乃香の欲情を煽っていた。まだ到達していない膣の奥もピクピクと蠢いている。それは絢人にもっととねだっているようでもあった。
 絢人は円を描くように入り口部分をほぐしたあと、挿入する指を増やしてくる。二本入れられると少しきつかったが痛みはない。穂乃香の隘路からは、こんなに濡れていいのかと心配になるほど蜜が溢れてきてしまい、彼の指の動きにあわせて卑猥な水音を立てはじめる。
 やがて絢人は、その発生源を探るように、指先を奥へとすすめていった。
「あっ、絢人さん……っんん」
 刺激が強まって、穂乃香は思わず口元を押さえる。
「かわいい声をもっと聞かせてくれ」
「でも、私だけ……」
 一人で乱れているのが恥ずかしい。声を出すことに抵抗がある。自分がおかしなことをしてしまうのではないかと不安になる。
「そんなことない。ほら、穂乃香……感じて」
 絢人がさらに身体を密着させてくる。また心臓の動きが伝わってきた。さっきと変わらず心音が速い。そして――。
「絢人さんの……」
 今、穂乃香のお尻のあたりに絢人の男性の部分があたっているのだ。彼は穂乃香の身体を触りながら興奮してくれている。彼のどの部分より熱くて、固かった。
「穂乃香が感じてくれると、俺も興奮するんだ……」
 絢人は穂乃香の肩に顎を乗せ、吐息を漏らした。そして秘部への愛撫をそのままにして、余っているほうの手で、同時に胸の先にも刺激を与えてくる。
「……はぅ、ああっ……そんなにしたら、私っ」
 穂乃香は腰を震わせながら、波のように襲ってくる刺激をどうにかやりすごそうとする。しかし、彼の親指の腹が、穂乃香の秘部にある小さな突起をかすめた時、理性が吹き飛んでしまう予感がした。
「あっ、だめ……それは……ああっ。絢人さん、怖い」
「いいんだ。怖くない。気持ちよくなれるだけだよ」
 中と花芽、そして胸……快感の波がどんどん大きくなってくる。もう受け流すことができなくなってしまいそうだ。限界を突破すると、自分は一体どうなってしまうのだろう。未知の領域に足を踏み込むのだとわかり、臆病になる。
 でも、心のどこかではその先を知りたいと思っていた。絢人にもそれが伝わっているのか、彼は手を止めなかった。
「穂乃香がイクところ、見せて欲しい」
 耳元で囁かれた声さえ刺激になる。穂乃香は彼の言葉から、自分が絶頂へ向かっているのだと理解した。
「あっ、絢人さん、私……私……ああぁっ」
 びくびくと腰が跳ねる。穂乃香は簡単に絶頂に押し上げられてしまった。膣壁は絢人の指を咥えたまま、ひくひくと痙攣し続けていた。
 絢人は穂乃香が落ち着くようにと、耳たぶや背中に軽くキスをしてくれるが、すべての感覚が研ぎ澄まされているようで、少しでも触れられただけで小さな快楽の波が起きてしまう。
 蜜壺からゆっくりと指を抜かれると、したたるほどの蜜が溢れてきてしまった。
「絢人さん……」
 名前を呼ぶと、絢人がぎゅっと抱きしめてくれる。汗をかいて冷えそうな身体が、ぬくもりに包まれた。
 そしてすっかり乱れた穂乃香の呼吸が整いはじめた頃、絢人は穂乃香をベッドに横たえさせた。
「俺達の今までの関係は終わりだ。明日からは新しい二人になれる」
「……はい」
 それが決別を意味するものなら、この行為は別れの儀式になるのだろうか。
 絢人は自分の服をすべて脱ぎ捨てて、穂乃香の前に裸体を晒した。
(すごい……)
 思わず息をのむ。
 服の上からではわからなかった、上半身の男性的なたくましさ。絢人にスポーツの趣味があるとは聞いていないが、日々トレーニングをしていることが伝わる均整のとれた筋肉の付き方をしている。強さを感じる大きな肩と比較して、ウエストはぎゅっと細く引き締まっていて美しい逆三角形を描いている。
 何より穂乃香の釘付けにさせたのは、上を向き彼の臍のあたりまでそそり立っている雄々しい象徴だ。指とはまったく違う太さをしているそれを、受け止めることができるのだろうか。
 絢人は穂乃香の手を取って、自分の下半身へと導いてくる。誘導され、彼の昂りに触れる。とても熱くて、触れているだけで穂乃香の興奮は増す。これは、穂乃香にとって怖い存在ではない。軽く握ると、絢人がうっとりとした吐息を漏らした。
「余裕がないんだ。ごめん……」
 絢人は穂乃香の手をよけると、蜜口に、己の屹立を宛がった。これから自分達は、ようやく繋がることができるのだ。穂乃香はほんの少しの怯えを必死に隠して、大きく呼吸をした。
 ぐっと熱杭が入り込んでくる。隘路が悲鳴を上げていた。思わず絢人にしがみつく。
「あっ、大きいっ……私、こんなの……壊れちゃう」
「痛いよね? ごめん。でも大丈夫。穂乃香は俺を受け入れられるようになっているから。……ゆっくりすすむから、耐えてくれ。もうやめてやれないんだ。……ああ、もう引き返せない」
 絢人こそ苦しみに耐えているように思え、穂乃香はどうにか強ばる身体に大丈夫だと言い聞かせる。
「んっ、いいの。……私、ずっとあなたとこうしたかったから……もっと奥に、我慢しないで」
 絢人の息がどんどんと荒くなっていった。まるで穂乃香に夢中になってくれているようだ。
 痛みで瞳が潤んでしまうが、泣かないと決めていた。彼の記憶にも、素敵な経験として刻みつけたいのだ。
 絢人は時間をかけて穂乃香の奥までたどり着いた。そして、懸命に受け入れた穂乃香の額にキスをくれる。
 それから幾度となく口付けを交わしていたが、やがて絢人の腰がゆっくりと動きはじめた。
「……はぅっ、ああ、私……、あっ、んん」
 痛みの中に、わずかに別の感覚が生まれている。穂乃香は、それを必死に追う。
 キスの合間に、嬌声を漏らしはじめた穂乃香を確認した絢人は、安堵まじりの微笑みをくれる。そして……。
「嫌になるほど思い知るといい。俺がどれだけ耐えてきたかを」
 絢人は激情をぶつけるように抽挿を速めてきた。肌と肌が当たる音と、くちゅくちゅと結合部分から発生する卑猥な水音、そして絢人の荒々しい息づかいを聞きながら、与えられる快楽を必死で受け止める。
「あっ、絢人さん……ああっ、激しいっ、んあっ――」
 穂乃香が絶頂に押し上げられた直後、絢人が強く腰を押しつけて、奥に熱い飛沫を放った。
 びゅっ、びゅっ、と放たれる精を感じるたびに、穂乃香は歓喜する。
「あっ、んっ、ああっっ。どうしよう……私、嬉しい。すごく嬉しい」
 それが束の間の幸せだったとしてもかまわない。この人は穂乃香の夫で、はじめての男。
 最初に決めた約束のとおり、これから別々の人生を歩むことになったとしても、それだけは揺るがない事実となった。

   §

 翌朝、穂乃香は絢人の腕の中で目を覚ました。
(夢じゃなかった……)
 今、穂乃香の隣には、美しい裸体をさらけだしたまま眠る絢人がいる。
 落ち着かない気分になった穂乃香がもぞもぞと動くと、絢人が存在を確認するよう身体を抱きしめてきた。
「穂乃香……」
 彼も目を覚ましたのかと思ったが、呼吸はまだ眠っている時のものだった。
 今、絢人はどんな夢を見ているのだろう。無意識でいるはずの彼に優しい声音で名を呼ばれると、せつなくなってしまう。このままずっと彼に抱かれていたい。
 でも差し込む朝の光が、穂乃香を現実に引き戻してくる。
 目覚めた彼は、どんな顔を穂乃香に向けてくるだろう。後悔を滲まされてしまったら、きっと耐えられない。
 眠っている絢人に気付かれぬようゆっくりと腕から抜け出して、散らばった服を拾いながらそっとベッドルームを出た。
 そしてメインルームのテーブルに、昨日渡しそびれてしまった離婚届を入れた封筒を置く。すでに自分が書くべき項目に記入は済ませてあるし、一緒に離婚条件の草案も添えてある。
 これは上手く言葉にできなかった時のために、先にまとめておいたものだ。
 二人は、離婚の時は金銭的な請求をしないと決めていた。それは穂乃香が株の売却により、身に余る金を得ていることを前提とするものだった。
 実際にそのとおりになったわけだが……今は約束を覆すつもりだ。今回得たお金の半分は、財産分与として彼に渡したいと穂乃香は考えている。
 二十代半ばから、三十代前半。絢人の人生の一番自由で楽しい時間を奪ってしまった。
 その価値は金に換算できるものではないとわかっているし、裕福な絢人に対しての恩返しになるとも思えない。それでも穂乃香の気が済まなかった。
 メモで「今までありがとうございました」と走り書きして、ペーパーウェイト代わりにずっと大切にしてきた腕時計を置く。
 形に残るものはここに置いて、一夜の幸福だけを思い出に、穂乃香はこれから一人で人生をやり直さなければならない。
 ドレスにショールを羽織った早朝には似つかわしくない姿で彼の部屋を出て、「誰にも会わないように」と願いながら自分が宿泊する予定だった部屋に戻る。
 シャワーを浴びたかったが、長くこの場所にとどまることをためらい着替えだけすませた。
 エレベーターを使ってロビーがある階に到着した穂乃香は、フロントに向かって歩き出す。
 その時、前方からショートカットヘアの綺麗な女性が歩いてくる姿が視界に入ってきた。
(あ……、あの時の人だ……)
 以前一度だけ会ったことがある。橘屋の関係者だから、パーティーに出席していてそのままここに宿泊したのだとしても、何らおかしいことではない。
 相手も穂乃香の顔を覚えていたのか、すれ違い様に、にこやかに軽く会釈をして去っていった。
 前に会ったのは、穂乃香がまだ学生だった頃だ。その人に何かされたわけではないが、絢人とは随分親しい関係のようで意識せずにいられなかった。
 今、こうしてこの場所ですれ違ったことを皮肉めいた運命のように感じて、穂乃香はうつむきながら持っていたバッグを抱えた。

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